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喩えとしての話なので辞書的な意味とは違うかもしれないが、興味深い話をしよう。
「正義」という言葉がある。
英語では「justice」だ。
実は「justice」という言葉が日本に入ってきたときに、日本語にはそれに当たる言葉が無かった。
そこで翻訳者(僕の記憶によれば福沢諭吉)が新しい言葉を作り、「justice」を表現した。
それが「正義」だ。
だから、実は「正義」と「justice」は、意味が違う。
「justice」は人間の長い歴史に生み出された表現たる言語であるのに対し、「正義」は一個人の解釈にすぎない。
「正義」というのは単一的な思想だ。
キミにとっても、僕にとっても、彼にとっても、「正義」は一つしかない。
だから「正義の味方」という言葉が成り立つ。
対して「justice」は、立場が違えば変わるものだ。
キミにキミの「justice」があり、僕には僕の「justice」、そして彼にも彼の「justice」がある。
それぞれの「justice」が示すものは違う。
例えると、キミにとって「成功」で、僕にとって「誇り」で、彼にとって「安心」。それぞれに違う「justice」がある。
この点で、「正義」とは真逆の存在だ。
「justice」の意味は広い。無限大と言ってもいいだろう。
それは主体の数だけ存在する。
面白いと思わないか?
「justice」の対象は狭い。最小だと一個人だ。しかし、だからこそ、意味は無限なんだ。
対して「正義」はみんなのものだ。翻訳者が当たり障り無く作ってしまったせいか、多くの人に当てはめようとした言葉だから、意味が薄っぺらい。そして薄っぺらい割りにはハッキリしない。
僕はこう思う。
学生だけに卒業があるのではない。
社会人にも卒業はある。
ただ、学生の卒業は、それまで守ってくれていた人達から与えられる卒業だから、自分で決めることができない。
だから学生には明示的な卒業がある。誰かが誰かに与えるのだから、当然目に見える卒業だ。
だが社会人は、いつでも何かから卒業することが出来る。
つまり、自立しているのだから、卒業を決める権利を自分が持っていると言ってもいい。
そのために誰かの許可を取る必要はない。
それは自ら心の中で認める卒業であり、誰の目にも見えない孤独な卒業だ。
そしてそれは困ったことに、本人にさえ、見えない。
ここが重要なんだ。
人は見えないことは、”無い”と思ってしまう。
それは驕りではないかと、僕は思う。
見えないだけで、”ある”のかもしれない。
気付かないだけで、”ある”のかもしれない。
そういうことに気付こうとする姿勢は、大事なのではないか。
少なくとも、自分の目に見えないものは”無い”などと言う傲慢な人間にはなりたくないじゃないか。
少し話をしよう。
僕は面白い話だと思っているが、キミは面白くないかもしれない。
それは僕にはわからないが、少なくとも聞く価値のある話だと思っている。
学校には卒業がある。
社会人には卒業がない。
それは何故だか知ってるかい?
端的に言ってしまえば、それは自立してるのか、誰かに守られているのかの違いだ。
学生は誰かしらに守られている。
親、教師、地域、名も知らぬ大人に、守られている。
対して社会人は、そういう存在と比較すれば、自立しているといえるだろう。
彼らは仕事というものから生活力を生み出しているからだ。
そうではない学生や社会人もいるだろう。
だが今はそういう人達の話をしたいわけでもないし、話の筋がブレるので、大雑把な区分けであることは勘弁してほしい。
では、何故、守られた存在には卒業があって、自立した存在には卒業がないのだろう?
先日書いたテキストですが、40~50分で書いたにしてはいい出来だと思って読み直したら最後の脈絡が繋がっていなかったので書き直しました。最後のくだりだけですが、結構きちんと真意が伝わるようになったと思うので、興味のある方は最後の方だけでも読み直してみて頂ければと思います。
それにしても最近は結構調子がいいです。
体調は悪いし、相変わらず神経がまいってしまうようなことが仕事上多発していますが、何故かこうして外向きに文章を書く心の余裕のようなものがあるのです。
今の立場で仕事をすることに慣れてきたのかもしれませんが、多分一番変わったことは、上司や会社の顔色を伺って仕事をするのではなく、自分が正しいと思えるやり方で仕事をするようになって、その手ごたえを感じられるようになってきたことかもしれません。
さーて、明日も頑張るか~。