そんなあンたにシャバダバダ
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最近気付いたことが一つあります。
僕は「ガンバレ」という言葉がどうしょうもないくらい好きだということです。
阪神大震災の頃に被災者の人に「ガンバレ」と言うのは無神経ではないか。とマスコミでさんざん書かれたせいか、それ以来、「がんばらなくていいんだよ」と声を掛けるのが正しいという風潮が染み付いてきた気がします。
自分の力ではどうしようも出来ない天災に見舞われた中で必死に生きている人に「ガンバレ」というのは確かに酷だというのはわかります。でも、そういう風潮に便乗して、プロスポーツ選手などがファンに「がんばって」と言われて「これ以上どう頑張れと?」などと毒づくのは間違っているし、「別に頑張らなくても自分はオンリーワンだからいいや」などと思っている若者も勘違いしていると思うのです。
「ガンバレ」というのは、頑張ればもしかしたら勝てるかもしれないとか、頑張ればもしかしたらいい結果を導き出せるかもしれないとか、頑張ればもっと良くなれる可能性があると思った時に応援する言葉だと思います。
だから僕はどんな時にも「ガンバレ」と言われたら嬉しい。
「ガンバレ」と言ってくれる人は、自分がより良くなれると信じてくれる人だと思っているし、そういう人がいることはとても心強いことだからです。
僕は常に今の自分より良くなれると信じています。
来月40になるというのに馬鹿みたいに信じてます。
もしもそれを信じなくなったなら、僕はもう二度と過去の自分を越えられないことを知っているからです。
そんな人生は僕にとって生きる価値などありません。
僕は思います。
成功しようが、失敗しようが、自分の選んだ道を信じて努力する姿は美しい。
周りの人に揶揄されても、小さな努力をコツコツと積み重ねている姿は美しい。
目先の小さな結果に振り回されずに、ずっと先にある、自分にしか見えない目標にひたすら向かう姿は美しい。
そういう生き方は素晴らしいじゃありませんか。
だから思うのです。
美しく生きたい、と。
たとえばあなたが電車で老人に席を譲ったとします。
でもその老人はムッとして「別にいいです」と吐き捨てたとしましょう。
その時あなたはどう思いますか?
恥をかかされたとか、もう席なんて譲らないとか思わないで欲しい。
相手にどう言われても、それでも席を譲ろうとした心、それ自体は美しいのです。
これを忘れないで欲しい。そしたあなたの美しい心を大切にしてあげて欲しい。
世の中には正しいことをしても報われないことが”たまに”ある、ただそれだけのことなのです。
あなたの美しい心の価値は、全く変わらず素晴らしい。
だから僕は美しく生きるために頑張る。
損をするか、得をするか、文句を言われるか、感謝されるか、そんなことどうでもいいと思えるくらい、そういう生き方自体に「生きる価値」があると思っているからです。
だから「ガンバレ」と言われれば嬉しいし、「ガンバレ」と言われる価値のある人間でありたいと努力しています。
そして僕はあなたにも、頑張ることで得られる充実した人生や生きている実感、「ガンバレ」と声を掛けられることの素晴らしさを知って欲しいと思っています。
だから僕は図々しくも、あなたにもこう声を掛けたい。
失敗しても、がんばれ、ガンバレ。
あせらず腐らず、がんばれ、ガンバレ。
がんばれ。
ガンバレ。
僕は「ガンバレ」という言葉がどうしょうもないくらい好きだということです。
阪神大震災の頃に被災者の人に「ガンバレ」と言うのは無神経ではないか。とマスコミでさんざん書かれたせいか、それ以来、「がんばらなくていいんだよ」と声を掛けるのが正しいという風潮が染み付いてきた気がします。
自分の力ではどうしようも出来ない天災に見舞われた中で必死に生きている人に「ガンバレ」というのは確かに酷だというのはわかります。でも、そういう風潮に便乗して、プロスポーツ選手などがファンに「がんばって」と言われて「これ以上どう頑張れと?」などと毒づくのは間違っているし、「別に頑張らなくても自分はオンリーワンだからいいや」などと思っている若者も勘違いしていると思うのです。
「ガンバレ」というのは、頑張ればもしかしたら勝てるかもしれないとか、頑張ればもしかしたらいい結果を導き出せるかもしれないとか、頑張ればもっと良くなれる可能性があると思った時に応援する言葉だと思います。
だから僕はどんな時にも「ガンバレ」と言われたら嬉しい。
「ガンバレ」と言ってくれる人は、自分がより良くなれると信じてくれる人だと思っているし、そういう人がいることはとても心強いことだからです。
僕は常に今の自分より良くなれると信じています。
来月40になるというのに馬鹿みたいに信じてます。
もしもそれを信じなくなったなら、僕はもう二度と過去の自分を越えられないことを知っているからです。
そんな人生は僕にとって生きる価値などありません。
僕は思います。
成功しようが、失敗しようが、自分の選んだ道を信じて努力する姿は美しい。
周りの人に揶揄されても、小さな努力をコツコツと積み重ねている姿は美しい。
目先の小さな結果に振り回されずに、ずっと先にある、自分にしか見えない目標にひたすら向かう姿は美しい。
そういう生き方は素晴らしいじゃありませんか。
だから思うのです。
美しく生きたい、と。
たとえばあなたが電車で老人に席を譲ったとします。
でもその老人はムッとして「別にいいです」と吐き捨てたとしましょう。
その時あなたはどう思いますか?
恥をかかされたとか、もう席なんて譲らないとか思わないで欲しい。
相手にどう言われても、それでも席を譲ろうとした心、それ自体は美しいのです。
これを忘れないで欲しい。そしたあなたの美しい心を大切にしてあげて欲しい。
世の中には正しいことをしても報われないことが”たまに”ある、ただそれだけのことなのです。
あなたの美しい心の価値は、全く変わらず素晴らしい。
だから僕は美しく生きるために頑張る。
損をするか、得をするか、文句を言われるか、感謝されるか、そんなことどうでもいいと思えるくらい、そういう生き方自体に「生きる価値」があると思っているからです。
だから「ガンバレ」と言われれば嬉しいし、「ガンバレ」と言われる価値のある人間でありたいと努力しています。
そして僕はあなたにも、頑張ることで得られる充実した人生や生きている実感、「ガンバレ」と声を掛けられることの素晴らしさを知って欲しいと思っています。
だから僕は図々しくも、あなたにもこう声を掛けたい。
失敗しても、がんばれ、ガンバレ。
あせらず腐らず、がんばれ、ガンバレ。
がんばれ。
ガンバレ。
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米んとの返信は、返信機能を使っているのですが、返信したことがトップに出ないので、人々(約2人)は僕が豆に返信したことに気付かないのではないか。そう考えた僕はこれから返信を普通の米んと欄で入力することにしたのであった。
あと、納豆を食べたら便が信じられないくらい臭くなって呼吸困難になり、トイレの芳香剤を増やす羽目になりました。ていうか、納豆なんてもう食わないなんて言わないなんて言わないんだから!
あと、納豆を食べたら便が信じられないくらい臭くなって呼吸困難になり、トイレの芳香剤を増やす羽目になりました。ていうか、納豆なんてもう食わないなんて言わないなんて言わないんだから!
赤字プロジェクトの赤字額が酷過ぎてボヌスカットだってよ。
その1プロジェクトだけで会社の30年の歴史の中で初の赤字決算かもしれん。
俺の会社ホント見る目ないわ。
俺のプロジェクトは問題ないので、うげ、って感じですわ。
やる気失せるわ。
ここでさ、俺が「人間ドックとか、人なのか犬なのかわかんねーよワンワン」とか言ったらさ、100%オヤジギャグだよな。ていうか、俺オヤジだよ。!はぁ、疲れた。バリウム全部出ないです。安西先生~。。。
ああ、グラデュエイションはやめな。
コメントの量で皆さんの期待の無さが自覚できました。
本当にありがとうございました。
ていうか、ここ見てる人って、何を期待してるの?
わからないので何を書けばいいのかわかりません。
うむ。いい日本語だ!
ああ、グラデュエイションはやめな。
コメントの量で皆さんの期待の無さが自覚できました。
本当にありがとうございました。
ていうか、ここ見てる人って、何を期待してるの?
わからないので何を書けばいいのかわかりません。
うむ。いい日本語だ!
今までは「別にイイや」と思っていたんですが、やはりこれを書かなければ先へは進めない。という思いが少なからずありました。
まあ、自慢ですが、これを書かないで仕事に打ち込んできた数年で、職場の責任者になり、会社で表彰も受けたわけですから、こんなもん書かないで真面目に働いてりゃいいじゃんエヘヘ的な考えが僕の中で賛成多数なんですが、それでもやっぱり書かなきゃならないのです。
(ちなみに長丁場になると思いますので、米んとくれると嬉しいです)
さて、中国の歴史に「和氏の璧(かしのへき)」の話があります。「壁」とは宝玉のことです。
戦国時代の楚の国にいた卞和氏(べんかし)が、山中で玉の原石を見つけ厲王に献上しましたが、鑑定の結果は「タダの石」でした。王は怒って卞和氏の片足を足切りの刑に処しました。
厲王が亡くなった後、卞和氏は再びその玉を武王に献上しましたが、結果は同じで、残る一方の足も切られました。
その後、文王の代に、卞和氏はその原石を抱いて三日三晩泣き続けました。
王は不思議に思いわけを聞きました。
「足切りの刑にされることなど珍しくもないのに、何故お前はそこまで悲しむのか?」
卞和氏は答えました。
「足切りになったことが悲しいのではありません。この璧を認めてもらえないことが悲しいのです」
王が試みにその石を磨がかせてみたところ、その原石は素晴らしい璧となりました。
卞和氏の名を取り、「和氏の壁」と名づけられました。
この璧はその後、至宝として歴史に登場します。
一番有名なところでは、「完璧」の語源となったところでしょうか。(これに興味のある方はコチラ→藺相如)
ちなみに藺相如は、僕が歴史上で一番好きな人物です。
僕は和氏の璧の話が大好きです。
人の使命の深さ。信念を貫くこと。そして良いものは、絶対にいつか価値が認められるということ。色々な大事なことを教えてくれるエピソードだと思います。
だから僕も、たまには自分の大事なことを、大事なままに発してみたいと思います。
いつもどおり長い前置きでしたが、次回から「Graduation(卒業)」の本編です。
これは僕が昔、新入社員に話したことを思い出しながらテキストにするというものですが、きっとどんな人にも価値のある話だと思っています。少なくとも、これが僕の人生の根幹を成す、僕にとって大事なこと。譲れないことの一つなのは間違いありません。
僕がこれからする話を「良い」と思うあなたは正しいでしょう。
そして、この話を「くだらない」と思うあなたも正しいのです。
そのことを忘れないでください。
僕がそうであるように、あなたの璧も、あなたが見出すのですから。
まあ、自慢ですが、これを書かないで仕事に打ち込んできた数年で、職場の責任者になり、会社で表彰も受けたわけですから、こんなもん書かないで真面目に働いてりゃいいじゃんエヘヘ的な考えが僕の中で賛成多数なんですが、それでもやっぱり書かなきゃならないのです。
(ちなみに長丁場になると思いますので、米んとくれると嬉しいです)
さて、中国の歴史に「和氏の璧(かしのへき)」の話があります。「壁」とは宝玉のことです。
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戦国時代の楚の国にいた卞和氏(べんかし)が、山中で玉の原石を見つけ厲王に献上しましたが、鑑定の結果は「タダの石」でした。王は怒って卞和氏の片足を足切りの刑に処しました。
厲王が亡くなった後、卞和氏は再びその玉を武王に献上しましたが、結果は同じで、残る一方の足も切られました。
その後、文王の代に、卞和氏はその原石を抱いて三日三晩泣き続けました。
王は不思議に思いわけを聞きました。
「足切りの刑にされることなど珍しくもないのに、何故お前はそこまで悲しむのか?」
卞和氏は答えました。
「足切りになったことが悲しいのではありません。この璧を認めてもらえないことが悲しいのです」
王が試みにその石を磨がかせてみたところ、その原石は素晴らしい璧となりました。
卞和氏の名を取り、「和氏の壁」と名づけられました。
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この璧はその後、至宝として歴史に登場します。
一番有名なところでは、「完璧」の語源となったところでしょうか。(これに興味のある方はコチラ→藺相如)
ちなみに藺相如は、僕が歴史上で一番好きな人物です。
僕は和氏の璧の話が大好きです。
人の使命の深さ。信念を貫くこと。そして良いものは、絶対にいつか価値が認められるということ。色々な大事なことを教えてくれるエピソードだと思います。
だから僕も、たまには自分の大事なことを、大事なままに発してみたいと思います。
いつもどおり長い前置きでしたが、次回から「Graduation(卒業)」の本編です。
これは僕が昔、新入社員に話したことを思い出しながらテキストにするというものですが、きっとどんな人にも価値のある話だと思っています。少なくとも、これが僕の人生の根幹を成す、僕にとって大事なこと。譲れないことの一つなのは間違いありません。
僕がこれからする話を「良い」と思うあなたは正しいでしょう。
そして、この話を「くだらない」と思うあなたも正しいのです。
そのことを忘れないでください。
僕がそうであるように、あなたの璧も、あなたが見出すのですから。
(続く)